19XX年4月1日 メイド・グッバイ
◇通話

暗い――

暗い、黒にほど近い空の下。
学園祭前日の夜。
金曜日。
時刻は、深夜三時十三分。
ある学生居住区域の一角で、音が鳴り響く。
それは余人には聞こえない音だ。
幽明にして霊妙なる呪いの音だ。
黄金の瞳へと届く、ある種のまじないだ。
碩学であればメスメル学の行使と呼ぶか。
およそ道を外れた高度な碩学技術、
その行使。その利用。
ひとの心理を砕き、操る音だ。
ただのひとりへと向けて。
統治会の役員として肩を並べる
親愛なる友人へと――
届く、音――

「これは、これは
なんとも可笑しい話じゃないか」

「この期に及んで、まだ、僕を頼ってこないとは」

 声、幽明の音となって虚空へと消える。
 彼の声。彼の言葉。
 ある学生居住区域の一角。
 統治会公邸のひとつ。
 その最上級執務室にて。
 ウィルヘルム・ライヒは電気通信器を起動、
 何者かへと対話を始めようとしていた。
 理事長から賜ったこの碩学機械。
 対象となる人間の心理、精神、
 無意識の願望や迷いの類いと直接対話するのだとか。
 端的に言えば、
 例えば、脳を洗うようなもの。
 日曜に教会へ通う人間や、
 道徳を口にする者は彼を咎めるだろう。
 だが、ここには誰もいない。
 彼は倫理の超越こそ自覚していたし、
 超人論を自説の一部にも取り入れていた。
 だから、その表情には笑みがある。
 心理へと手を加えることを、
 彼は、笑みさえ浮かべて成し遂げる。

 コール音が静かに響く。
 しかし、一向にそれは鳴り止まない。

「おやおや」

 彼の声は震えていた。
 まるで何かを恐れるように。

「まったく……もう、寝てしまったのかな」

「速度を尊ぶ、彼らしくはあるが」

 震える声。何かに忌避するように。
 これは実に珍しい。

「では、もう一人の〝彼〟はどうだろうか?」

 再び、彼の指がダイヤルを告げる。
 笑みが深くなりかけるのを、
 鋼の精神で自制する。そうせざるを得ない。
 それほどの動揺だった。
 ここまで、自分が脆くなっているとは。
 予想外の出来事だった。
 まさに驚天動地、だった。

『この電話番号には――』

『現在、お客様の都合でお繋ぎできません』

 声、潜めて――
 笑みが深くなる。
 残酷に。嘲笑的に。

「ふ、ははは――」

 彼は微笑む。
 窓向こうに見えるデュフの塔シャトー・デュフを眺めながら。

「なるほど、これは――」

 さあ、答えろ。
 自分は答えるしかないだろう。
 ただひとつの回答を。

「着信拒否、かぁ……」

 彼は、静かに微笑んで、
 受話器を置き通信回線を――
 切る――